月の雫が映る空
管理人の風露が日々のことをのんびりまったりと綴るブログです。
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2011
12,08
10:55
周瑜さんちの
CATEGORY[創作関連]
先日の公瑾さんちの子供たちについてある程度まとめたので。
なんか横道それつつえらい時間かかりました。
楽しかったけどね。こんどは伯符さんの子供とか、孫権の子供の嫁の話とかしたらいいんじゃないかな?
ご存知の通り周瑜には息子二人、娘一人の三人の子供がおります。息子が周循と周胤、娘が俗にいう周氏です。
『三国志』周瑜伝からとってくるとこんな感じ↓
「瑜両男一女。女配太子登。男循尚公主,拜騎都尉,有瑜風,早卒。」
まず娘の話と長男の話が出てきました。ではまず息子(長男)から。
◆周循
彼に関する記述はこの周瑜伝の記事と娶った公主、つまり孫魯班関係で出てくるだけです。具体的には『三国志』歩夫人伝。
呉ではどうかわかりませんが…騎都尉って宗室外戚枠というか公主とか娶るとなりやすい…らしい。昔唐代の話でそんな話を聞いたことがあります。
そこらへんは職官表洗いざらいみるとか『通典』で調べてみるとかすればいいけど、そこまででは無い気がするので(
めんどくさいとかそんなことでは…
)
一応官職には付いていることがわかります。
あと、孫魯班の後の夫である全琮の列伝に、全琮が孫魯班を黄龍元(229)年に娶ったとの記述があります…孫権が皇帝になった年ですね。
つまり、それ以前には既に周循は死亡していた、と考えられます。
仮に周循が小橋の息子だとすると、30まで生きられていないわけですね…孫権最愛の歩夫人の娘を嫁にもらってるくらいだから期待とかプレッシャーも相当なのかも。瑜の風があるといっても二世武将は大変ですし、お父さん出来る人だからまあ、下手に長生きするよりはいいんじゃないかな…
◆周胤
はい、次男です。
次男のはお兄さんよりも記事があります。それがいいのか悪いのかはさておき。
『三国志』周瑜伝から抜粋するとこんな感じ。
「循弟胤,初拜興業都尉,妻以宗女,授兵千人,屯公安。黄龍元年,封都郷侯,後以罪徒廬陵郡。」
まず、興業都尉に任じられて、孫家の一族の娘さんを嫁にもらっていることがわかります。興業都尉ってどのくらいの役職なのかな…とはいえ、長男次男とも宗室の娘って辺りがやっぱり怖いですね。
公安…って言えば南郡とかの近くですな。てことは荊州争奪戦の舞台の一部か…ここに呉の武将が駐屯出来る時期、を考えたらもう少し絞れるかも。主に周循の寿命的な意味で。
例えば関羽伝だと傅士仁が公安に駐屯してるし。このあと裏切るけど。
荊州争奪戦は興味が全然ない時代なわけですが、ちょっと調べてみようと思いました 笑
で、黄龍元年に都卿侯に封ぜられ、その後罪を犯して盧陵郡に配流される、と。
この時点だと周循は確実に死んでいる、と。まあ、功績のない二世武将はならば一家の当主に爵位が贈られるのはまあ普通かな…これ兄弟で功績立てると別に爵位所有したりでややこしいのよね……司馬兄弟、お前らのことだ。
戦乱時の爵位と、その後の爵位の継承はちょっと違うものかと…ああもうややこしい。
とにかく彼は黄龍元(229)年に爵位をもらいますが、その後罪あって配流となります。内容を見るに自業自得な気もしますが、どこまで本気なのかよくわかりません。
この出来事に対して、赤烏2(239)年に諸葛瑾と歩隲が連名で孫権に周胤をゆるすよう上疏しますが、孫権は却下します。態度を改めることのなかった周胤が悪いのであって、個人に含むところはなにもないらしいです。そうかそうか。(
このあたりがグレーに見えるんだと)
…まあ、自業自得かしらね。それともプレッシャーに負けたか。
このあと諸葛瑾・歩隲の上表が引き続き上呈され、さらに朱然と全琮もゆるせと上陳しまして、孫権は彼をゆるそうとします…が、ちょうどその頃に周胤が病気のため亡くなってしまいます。タイミング悪っ!
いつ頃赦してもらえたのかは不明ですが、諸葛瑾が241年に亡くなっているのでそれ以前かなと。つまり241年までには周胤は死んでいたわけですね。
こういうタイミングなので孫権陰謀説とか流行るんでしょうね…いろいろタイミングわるいんだよなー…孫翊とかも。全部が全部とはいわないけれども、話としては面白いよね(おい!)
個人的には全琮が上陳してる辺りが面白いかなと。
全琮は何度も言いますがこの時点で孫魯班の夫です。だから孫魯班絡みなのかなー…とも。孫登はまだ死んでいませんし、二宮の変前夜ではありますが、もし周胤が生きていたらといろいろ考えざるを得ないです。上表メンツも二宮の変だと家として微妙な立場の面々多いしね!
※周胤の夷陵の戦い参戦について
前この話題を出したと思うんですが…これ、該当記事が見当たりません。
『三国志』は勿論ですが、『三国志集解』『建康実録』の孫権・周瑜・陸遜の該当箇所探したのですが見当たりません。ネットでもソース探したのです見つかりませんでした。どこが元ネタでしょうかね…公安に駐屯した時期でなにか分かるかも、といったのはこれが理由。夷陵も距離的には近いし。
…以上息子二人について。この時点で二千字とか軽くレジュメじゃないですかー 笑
◆周氏
はいじゃあ最後。最後は娘さんです。
娘さんの記事は周瑜伝には最初に上げた記事しかありません。夫である孫登伝にもいないはず。
彼女がいつ嫁いだかわかるのは『三国志』の程秉伝。
「黄武四年,權為太子登娉周瑜女,秉守太常,迎妃於呉,權親幸秉船,深見優禮。」
程秉…って誰とか言わない。よく知らないけれども呉の学者さんですね。なんか自分の伝以外には記述のない珍しい人だとか私もwiki見てさっき知った。
これだと黄武4年ですね。西暦に直すと225年。
これ以上の記述はないです…理由は孫登が皇帝になってないからですね…あれこのパターンどっかで見たことあるぞ…
ただ、ある程度年齢は絞れる気がします。孫登が209年生まれなのでその付近じゃないかな…周瑜が210年に死んだことを考えると孫登よりも年上の確率が高そうです。そうなるとあまりに年が違うとちょっと。夫が年上ならいいけど完全に行き遅れますからね…それは流石にないと思いたい。
また、孫登の奥さんについてはもう一人。
「權為子登揀擇淑媛,羣臣咸稱玄父祉兄良並以德義文武顯名三世,故遂娉玄女為妃焉。黄武五年(玄)卒,權甚愍惜之。」(『三国志』潘濬伝注『呉書』)
こちら『三国志』潘濬伝の中の『呉書』より。
「玄女」…ってありますが、彼女です。で、「玄」というのは芮玄(ぜいげん)のこと。この人もよくわからない人です…
ええと、潘濬ですか?この人も最近知った人なのでよくわからないのですが、潘濬は蜀から呉へ関羽の一件の時に降った人ですね。
なんかすごい有能ですね、あんまりしらないけれど。呂壱事件とか。呉に降ったのにすごい出世してると思うんですけれど…しかも嫁が蒋琬の妹だと…しかも娘を孫慮(孫権次男)に嫁がせているだと…なんかすっごい面白いひとだ、この人。
孫権の息子の嫁はまとめてもいいかも。個人的にはデータとっておいて損は無い気がする。
話がずいぶんそれましたが、この芮玄という人は226年には亡くなっているようです。記述の順序としては、それ以前に彼の娘は妃になっているのですが…そうなると程秉伝と食い違う気が。
妃って夫人とか姫とかと違って正室のことだと…となると二人の妃が並立するのだけれども?それは流石にないだろう。そしてあの周瑜の娘が側室とは考え難い。
以前は程秉伝に「周瑜女」って記述があるのを見落としていたので死んだのか、って思ったいたらどうもそうじゃないらしい。
仮に周瑜の娘が死んでその後すぐ…って考えられはするけれども喪服とかあるだろうし、それを無視出来るような立場では無いと思うし…謎。
つまりよくわかりませんということで…孫登に子供はいますがこれも母親が誰かわかってはおりません。生年は不明ですが254年に殺害されていたかと。このあたり話し始めるときりがないので別の機会にでも。
…以上なんか予想以上に長くなった。
わかっている部分で年表作るとこんな感じか。
◆関連年表◆
建安14年(209) 孫登生まれる
建安15年(210) 周瑜死去
(この間に周循死去)
黄武4年(225) 周瑜の娘、孫登に嫁ぐ
黄龍1年(229) 孫権皇帝に
周胤都郷侯に、後に配流
孫魯班、全琮に嫁ぐ
赤烏2年(239) 諸葛瑾・歩隲らが周胤を赦すよう孫権に上呈
(これ以降241年までに周胤死去)
赤烏4年(241) 孫登死去
五鳳1年(254) 孫英(孫登子)自殺
…一応血のつながりがありそうなとこ全部拾いました。
周峻くんごめんねわたし直系だけで力尽きた…
まあ、周瑜娘も小橋さんも長生きするよりは早くいなくなったほうがいいかもしれないな…と毎度の事ながらおもう。
ただ、この感じだと周循は220年前後に死去していそう…じゃなけりゃ何かしら記述が残っていそう。参戦の記録もないし(凌統が15歳で~とか基準に考えてます)…200年以降の子供じゃないのかなやっぱり。
そう考えるとそれ以降の子供もそうだろうとか考えて、もう小橋さんの子供でいいよ、そう結論をつけてしまいたいのであった…
はい、以上長々と本業の合間に遊んでみました。
これ、3000字以上あるんだけど…なにやってんだか 呆
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